Brutality Garden

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 ヴェローゾのマニフェスト・ソング「トロピカーリア」は、一九六八年の彼のソロ・デビュー・アルバム(カラー口絵9)のオープニング・トラックだが、ブラジルの歌における寓喩的表現のもっとも際立った例のひとつである。国の寓喩であるこの歌は、ホッシャの映画作品の苦い絶望と、ホドリゲスの絵画のお祭り的な華麗さの双方を併せ持っている。「トロピカーリア」の歌詞は、出来事、象徴、よく知られている諺、音楽や文学からの引用の断片的なモンタージュだ。名称は登場しないが、歌がもっとも直接的に言及しているのは、一九六四年以降は軍事政権の政治行政的中心となった、非常にモダンな建築と開発近代化のモニュメント、ブラジリアである。「トロピカーリア」は、国家の発展の理想的なシンボルから、ブラジルにおける民主的近代化の失敗を描くディストピア的寓喩へと姿を変えたブラジリアの変遷をほのめかしている。ヴェローゾはこう説明した。「これは大いなる皮肉のイメージ、当時、ブラジルにいることおよびブラジル人であるということがどういうことだったかについての、まあまあ無意識な表現だ。ブラジリアのことを、プラナルト・セントラル[中央高原]のことを考えれば、その建築に何かしらの誇りを感じることを期待するかもしれないが、実はあれは全くそんなものじゃない。得られる感覚は、むしろ”なんて化け物じみているんだ!”だ。そして、それは、ブラジリアが建設された後に独裁政権がやってきたからだ。だからブラジリアは、この独裁政権の中心として残ることになってしまった」(36)。歌の中では、ブラジリアは”張り子の材料と銀”でできた”モニュメント”として紹介されていて、未来的な首都の意気揚々とした落成が、より大きな未開発と社会不平等の情況を覆い隠しているのと同様、外観の光り輝く壮大さが脆弱な構造を隠していることを示している。

 ヴェローゾの「トロピカーリア」はまた、ブラジル文学、ブラジル文化に向けた皮肉なモニュメントでもある。ロマン派作家ジョゼ・ヂ・アレンカール、高踏派詩人オラーヴォ・ビラック、作曲家カトゥーロ・ダ・パイシャォン・セアレンシ、ポップな偶像カルメン・ミランダとホベルト・カルロスを原文として引用しており、歌は、国の文学の基礎的なテキストを如才なくパロディすると宣言して始まる。サウンド・エンジニアのホジェーリオ・ガウスが録音のためにマイクをテストしており、ドラマーのヂルセウが、一五○○年にカブラルの船団が南米大陸に到着した後、ポルトガル王に宛てて書かれたペーロ・ヴァス・カミーニャの手紙を即席でパロディにする。「ペーロ・ヴァス・カミーニャは、ブラジルが豊饒で緑多い土地だと気づいて、ここでは植えたものはすべて育ち、繁茂すると、王に宛てた手紙に書いた。そして、当時のガウスがそれを録音したんだ」。このセッションの指揮者でアレンジャーのジューリオ・メダグリーアは、六〇年代の前衛音楽の偶発的で滑稽なふるまいに同調して、ドラムのビートやベル、ピッチの高い鳥声のようなホイッスルが奏する”プリミティヴ”なサウンドの、時代遅れなパロディを加えることに決めた。機知に富むアナクロニズムに続いて、金管と弦楽のオーケストラが入り、壮大な謎とドラマの雰囲気を造り出す。

 歌詞は一人称で書かれており、あたかもヴェローゾ本人が、ブラジルの中核地帯へのこのシュールな旅をしている主人公であるかのようだ。第一連では、語り手は自身をブラジリア調査隊のリーダーとして位置づけている。「僕はムーヴメントを組織する/カルナヴァルを率い/モニュメントの除幕式をやる/国の中央にある高原で」。最初のリフレインは、歌全体の話法を構成する、モダンとアルカイックの二極対比を提起する。「ボサノヴァ万歳/藁葺きの家万歳」。ボサノヴァは、モダニティと関連づけられる洗練された”完成品”。それがブラジル奥地では普通に見られる泥壁・藁葺きの家と組み合わされている。次のリフレインはマタ(ジャングル)とムラータ、マリーアとバイーア、イラセーマ(ジョゼ・ヂ・アレンカールのインディアニズモ小説の女性主人公)とイパネーマ(リオのビーチを臨む高級住宅街)という具合に韻を踏む。ヴェローゾの「トロピカーリア」は、オズヴァルド・ヂ・アンドラーヂの二元的比喩「ジャングルと学校」の最新版なのだ。アウグスト・ヂ・カンポスは後に、この曲とオズヴァルド・ヂ・アンドラーヂのモデルニズモ詩との類似点に注目し、「トロピカーリア」を「我らの初めてのパウ・ブラジル・ソング」と呼んだ。

 第二連では、語り手が未来的なモニュメントの入り口へ近づくと、時空がアルカイックな領域へ落ち込む。「モニュメントにはドアがない/古く 狭く曲がりくねった道への入口」。モニュメントの中では、あたかも施しを乞うように「手を伸ばしている 笑顔の子どもの醜い死体」と出会う。他のどの部分よりも、この箇所はベンヤミン的寓喩と共鳴している。「原初の時以来、時期はずれで悲しく、不運であった歴史の一切が、顔面───あるいは死の頭部に表れているのだ」(38)。死んだ子どもの亡霊、再分配の近代化の挫折と赤貧の継続を寓喩化しているのである。

 セルソ・ファヴァレットは、右手と左手について触れることで、六〇年代のブラジルの政治的情況を寓喩化する「トロピカーリア」独特の方法に注目している(39)。例えば第三連では、ヴェローゾは、伝統的なサンバ・ヂ・ホーダ[打楽器と肉声、拍手で演じられるアフロ・ブラジル起源の音楽]のパロディをやるにあたって、「右手にはバラの枝/春には花を咲かせる」の行の後半を「永遠の春を証明する」と置き換えている。永遠の極楽のイメージを作り出すために、自然を故意に操作することを示すフレーズだ。しかしながら、これに続く文では、旱魃に見舞われた北東部内陸地域で、切迫する死のサインであるハゲタカに焦点を当て、牧歌的なシーンの足下をすくう。「庭では午後いっぱいハゲタカが向日葵の上を旋回する」。一方、左手は、その手首を使ってぎこちなく銃を振り回そうとする武装強盗として描かれる。彼は行為に失敗するが、その代わり「そのハートはサンバのタンボリンに高鳴る」というフレーズが示唆するように、大衆文化に訴えることによって報われる。

 最終連は、六〇年代のポピュラー・ミュージック・シーンを直接、寓喩化している。音楽の救済力を表すシコ・ブアルキやエドゥ・ロボのメタソングとは違い、「トロピカーリア」は、六四年以降、中心的な対立となったボサノヴァ第二世代とジョーヴェン・グアルダのロック・スターたちとの間の関係を風刺する───

domingo é o fino da bossa
segunda-feira está na fossa
terça-feira vai à roça, porém
o monumento é bem moderno
não disse nada do modelo do meu terno
que tudo mais vá pro inferno meu bem


日曜はフィーノ・ダ・ボッサ
月曜はドツボ[フォッサ]の中
火曜は畑へ出かけていくが
モニュメントはホントにモダンだ
僕のスーツのモデルについては何も言わなかったね
何もかも地獄へ堕ちろだよ 愛しい君



(『第三章 トロピカーリアの時』より抜粋)
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